そよと吹く 風にも春は佐保姫の 袖のうつり香匂ふ野辺かな
昔人は春霞や満開の桜の美しさに女神を見出し、春を司る女神が「佐保姫」です。
また春は卒業、卒園、入学、就職や引っ越しなど何かと気ぜわしい季節でもあり、その1つが受験です。希望する学校に入れる方がいいに決まっていますが、落ちる人もいます。受験は勝負事、だから1点でも少なければ負けとなり今までの努力なんて評価されません。考えてみれば理不尽な制度ですが、でもそれは一面、人生の真実を教えてくれます。世の中には理不尽と思えることもあるもので、これも受け止め方次第です。
悩めること、思い通りにならないことは人生にはつきものですが、それで心が傷ついたり病んでしまう人もいます。もともと現代医学は戦場で発達した戦場医学ですから大怪我や大やけど、骨折、事故などの緊急事態への対応はすごいものがありますが、心を病んだ人へ対応は難しいようです。本日は今や社会問題の1つとなっている精神(心)の浄化を取り上げてみたいと思います。
駅前や駅構内には様々な看板が掲げられていますが、多いのが医院や診療所の看板。その中でも近年目立つようになったのが「メンタルクリニック」です。精神科と言えば暗いイメージしかなかったのですが、「メンタルクリニック」と名称を改めた事により、それまでのイメージが払拭され、心身に不調をかかえる人々が気軽に立ち寄る場所になりました。
ところで近年、よく耳にする「うつ病」、それは30年ほど前までは専門家以外はほとんど知らない言葉でした。もっとも「うつ病」という病気はあるにはあったのですが、「鬱」という画数の多い字で表され、“感情はすっかり枯れ果てて言葉を発することも、食事することやトイレに行くことすらままならない状態”で、ひどくなるほど自殺しようにも出来ないという重い精神病の1つでした。
ところが今日「うつ病」とされるものは、かつての精神病としての鬱病とは別物であって、ほとんどは過労や心配事からくる心の悩みであり、神経性うつ(都市型うつ)と呼ばれるものです。この全く違うものを、ただ症状が似ているとして1つにしてしまっただけではなく、「うつは心の風邪」というキャッチコピーが奏功して、今ではうつなどの気分障害で診察中の患者は激増しています。そうした人々に対して多くのクリニック(精神科)では薬物を中心とした治療が行われているわけです。
しかし、ちょっと考えたら分かるように不安や悲しみ、憂うつや自己嫌悪などは人生につきまとう致し方のないものであり、また貧困や失業、多重債務、超過勤務やパワハラ、対人関係や家族関係といった問題に効くクスリなどあるはずがありません。にもかかわらず、
現代人の眼は、大方は近視眼になっている。それは、目前の物しか視る事が出来ない症状だ。だから近視眼では、科学のイミテーション(ニセモノの意)は解るはずがない。(新日本医術書 昭和11年4月15日)
とのお言葉のように患者の「嫌なことから早く逃れたい」、医師の「何とか助けてあげたい」などの気持ちがクスリに走らせるのでしょう。こうした現実に、精神科医でもある獨協医大の井原裕先生は「診断基準に従って診断し、ガイドライン通りの薬物療法を行ったけど結果は出なかった」と述べており、そこで着目したのは患者さんの生活習慣でした。その著「うつの常識は非常識(ディスカバー携書刊)」をぜひ読んでほしいのですが、要は6時起床23時就寝、酒を飲みすぎならば減らす、やめるなど具体的な目標を決めて生活習慣の改善を行ったほうがよいとおっしゃっています。
うつ状態というのは誰もがなりうるもので、私自身も20年ほど前に仕事のことをきっかけにうつ状態が1年ほど続いた時期がありました。「昼間は気が滅入って仕方がない。接する人が大きく(立派に)見えて仕方ない。夜になって眠ろうと思うけど、すぐ目が覚めてしまう。だけど仕事があるから朝が来れば否応もなく起きなければならない」。その時の自分は情けなくて仕方なかったけど、今思えば仕事があったことと妻が特別扱いしなかったことが幸いでした。もっとも、この時のことを妻に聞くと、子供たちの世話が大変で私のことまで「構っておれなかった」といっていましたが、それも御守護でした。
何が言いたいのかといえば、うつや睡眠障害の人に対しては「寝ていないのだから朝、無理に起こしてはいけない」などと言いますが、極端なやり方は論外として、とにかく「起こす」ことはすべきです。少なくとも起床時間を徐々にでもいいから適正な時間に戻してあげること、当人も頑張って起きることをしない限り生活リズムの修正にはなりません。だからといって一朝一夕にはいきませんが、努力することは大事なことです。
なお私は眠れないが故にその日の出来事を思い出し、有難いことや感謝すべきことをノートに記すようになりました。最初はなかなか書けなかったけど続けているうちにいくらでもあふれてくるようになり、それに従って心の方も軽くなっていった記憶があります。こうした心の悩みからくる「うつ」は、“今まで当たり前と思っていた1つひとつの出来事に感謝の気持ちが芽生えるための浄化”とも言えるでしょう。
▼浄霊の視点から見るうつ病
一般的にうつをはじめとする心の浄化はストレスや人間関係の悩みなどによって起こると考えられています。確かにそうしたことをきっかけとして心を病んでしまうからです。
ところで「人間は想念次第」というお言葉もあるくらい、人は心次第で天国にもなれば地獄にもなっていきます。もし自分の人の心が他の心に支配されたとしたらどうでしょうか。
霊界の存在を信じない現在、「そんなことあるかいな」と思われがちですが、うつなど心(精神)の浄化とは「自分の心が他の心に奪われた(支配された)状態」なのです。それはあまりにも巧妙であり、自分の意志としか思えないだけなのです。
この「他の心」の事を宗教的には憑依霊と呼び、ほとんど狐霊(死んだ狐の霊)ですが、こういうことを言うと現代人の多くはオカルトにしか思わないでしょう。しかし私の経験として精神病などから解放された人の中に「あの時の私の体には幾匹もの狐がまとわりついていた」などと話してくれた人もいました。
また心の浄化の特徴の1つに、考えすぎて(気になって)「眠れない」というのがありますが、これぞ憑依霊の特徴の表れでもあり、肉体を持たぬ憑依霊にとっては体を休ませる(睡眠)必要などないからです。
ところで霊と体より成り立っている人間、私たちの体の中を流れている血液は単なる細胞ではなく、霊が物質化してきたものです。実はうつ病を患っている人の脳を画像検査すると前頭部への血流が悪くなっていることが分かっています。つまり「脳貧血」ですが、それはイコール前頭部の貧霊であり、霊が希薄になっただけは自分の心は憑依霊の意のままになってしまうのです。
その「脳貧血」は体が疲れきったり、首肩がとても凝ったり、悩みすぎての寝不足などに伴っておこってくるもので、時に衰弱による食欲の大幅な減退や出産後間もない時にも起きります。いずれにしたって憑依霊は地獄の遣いですから、天国的(楽観的)な発想など望めません。「私などいないほうがまし」「僕はダメな人間」などいうのは憑依霊の心が自らに向かってしまうからなのです。
▼浄霊のコツ
元気にするには脳貧血を改善することですが、うつの人の多くは仕事などで疲れ切った状態にあります。これは当人ではどうにもならないもので、だからこそ周囲の目が大事であり疲れ切っているようならば仕事を減らす、休養させることからです。
醜人を 浄霊をもて浄むれば 真の人と変る尊さ
とありますが、憑依霊は神様との霊的な接点であり、理性の座でもある眉毛と眉毛の間(天帝)を占領します。ポイントはこの箇所の浄霊ともに首肩や背中もパンパン(毒素が溜まっている)になっていますから、こうした個所をよく浄霊することです。体と心は一体ですから、体が楽になっただけは心配事や悩みなども安らいでいくものです。
またうつ状態のときは家や部屋に閉じこもり気味になるもので体を動かそうとしません。これでは浄化が促進されないので適度な運動や仕事などで体を動かすことも肝心です。
ここでストレス(心配事・気を病むこと)について一言しますと、ストレスが強すぎるのも問題ですが、ではストレスがなければ人は健康に生きられるのかというとそうではありません。例えば有閑な人々の無為・怠惰、ニートなどの仕事のない人の空虚感、子どもが自立した後の空きの巣症候群の母たち、退職後の虚脱感、あるいは自律神経失調症で悩む奥さなど、「することがない」「予定がない」などいうのは一気に健康を害してしまいます。
「心と体の健康を維持するためには適度のストレス(気苦労)は必要」なのであって、だから「仕事がない」「リタイアした」からとして何もしないのではなく、朝が来たら起きて短時間でもいいから仕事をする、手伝いをする。とにかく何でもいいから何らかの用事を作ってやってみることが大事です。やるべきことが少なすぎると自分自身に目がいきすぎる、感謝が足りなくなるということです。
▼浄霊は幸福を生む方法なり
インターネットの発達もあり、今では世界中で起こっていることがまたたく間に伝わってくるようになりました。先月、トルコ・シリア国境付近で大地震があり、多くの人が被災して亡くなったり、厳しい寒さの中で行き場のない人々の姿が映し出されています。
そういった光景を目にすれば、誰もが「かわいそうに。何とかならんのか」と気の毒に思います。しかし思うだけなら、たとえ相手が何百万人いようと簡単ですが、実際にはその中のたった1人を救う事も容易ではありません。多くの人の幸せを願う事も大事ですが、願うばかりでは始まりません。まずは身近な人の事からやっていかなければならないし、自分がすべきことをチャンとやっていくという事でしょう。
しかし人の為と書くと「偽り」となります。人のためを思ってやっても、それが報われないと相手を攻めたりします。そんなことを言う位だったらしない方がましかもしれません。
そうではなく無償の愛というか、やむにやまれぬ「してあげたい」「役に立たせてもらいたい」と言う気持ちが大事でしょう。自分がやった事はどんな事であるにせよ必ず形となって返ってきます。そう思うと人のためではなく、みんな自分のためです。
床しけれ 我身の事をあとにして 人のよかれと願ふ心の
とありますように、皆さんは「人のよかれ」の大切さは十分お分かりの事と思いますけど、いざ実行となるとついつい難しく考えてしまいます。
例えば浄霊を受ける場合、「今、浄化中でつらいから助けて欲しい」と思うだけならば我(自分良かれ)でしかありません。しかし「今のままでは仕事ができない。世のために働けない。だから元気になって仕事ができるようにお願い申し上げます」と願うのであれば、「人のよかれ」ということになり、明主様の御心にもかなうのです。大切なのはこの点で浄霊は単なる病気治してはなく、あくまでも1つの結果として病気が治るのだということを忘れないでください。
浄霊は『幸福を生む方法』です。浄霊によって健康にしていただいた人が今度は自分も世のため、人のためを願って貢献することなのです。ましてや「あなたはいつお会いしても喜びに溢れ、実に元気で幸福そうですね。」とみられるようになれば、身をもって浄霊の素晴らしさを周囲に伝えたことになります。反対に愚痴ばかりをこぼし、顔は暗く泣きごとばかり言っていたら、「なんだ、浄霊ってそんなものか」と人々を遠ざけてしまうことにもなりかねません。というように私達が日常生活をしていく中で「人のよかれ」を実行する場所、機会は山ほどあるということです。家族や周りの人など幸を願って今できること、目の前にあるゴミを拾ったりというように手近なところから1つひとつ実行することです。
今日は「うつ」など心の浄化を中心に話をしましたが、いくら良いことでも気が沈んでおれば、あるいは体が楽でなければできません。努力することは大事ですが、根本は体を元気にすることであり、そのために浄霊があるのです。