浄化の時は曇りと思え(2022年10月2日講話)

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(あき)(あさ)く ()(みじ)には()(はや)けれど  (めず)らしき(はな)わが()をうばう

 

猛烈な暑さ続きの夏もようやく終りを告げ、朝晩の心地よい風にホッとする今日この頃です。今年もあまりの暑さで熱中症になり、救急搬送された人も多かったわけですが、その熱中症で痛ましい出来事も起こりました。九月初め、静岡の幼稚園送迎バス内に閉じ込められた幼い子が亡くなり、その様は聞くに堪えないものでした。昨年七月にも福岡で同様の事件が起こっていたのに、「またか」と思ってしまいます。

 

この度の件でNHKが大阪府下の市町村に確認したところ4市で5件の送迎バス閉じ込めが発生していたとのことで、中には夏場ではなかったものの5時間も放置された例もあったようです。幸いに死に至ることはありませんでしたが、NHKは「この調査を全国規模でやったらどれだけの数になるか分からない」などと報じていました。

それは送迎バスだけかと思いきやマイカーでも起こっており、「親が保育園などに園児を預け忘れて車内に放置し、死に至った例は過去4年間に5件起こっていた」と新聞は報じていました。

 

子どもを園に送るだけに限定しても「いつ、どこで何が起こるか分からない」という現実があります。不注意(確認ミスなど)が招いた結果ですが、これを「自分が当事者(子ども、親、園長)だったら・・・」と考えてみる時、決して他人事では済まされません。

考えてみれば不注意などしたことのない人はいないわけであり、仮に不注意になっていても何事もなく済んでいる例も多いわけです。それを「偶然」「運が良かった」で片付けてしまう世の中ですが、そこの違いを「何故だろう」と考える必要があるのです。

ましてや何が起こってもおかしくない世の中を生きているのなら「もし火事になったら、もし事故になったら」などと最悪の事態を考慮して行動することも大事なことです。

 

物事は原因あっての結果ではありますが、だからといって原因があれば結果が出るとは限りません。この違いを考えるのが信仰の世界であり、物事には偶然などないのです。

ということで、今月は「浄化の時は曇りと思え」というテーマでお話しします。

 

 

▼曇りと思え

 

前述したように物事は原因あっての結果ですが、だからと言って原因があれば結果が出るとは限りません。そこにはきっかけ、つまり「縁(誘因)」がいるのであって、例えば、そこに居たばかりに・・・の「居た」とか、何かで転んだときの段差とか、確認しなかったときの不注意とか、病気の時のバイキンやウイルスなどです。世の中では、こうしたきっかけを病気や不幸、事件や事故の原因と考えるわけですが、先ほどの御論文に、

 

医学の考え方は、表面に現われた結果を押えつけようとして、それのみを研究して来たので、今一歩深く掘下げる事に気がつかないのである。

 

とありますように医学のみではなく、すべての分野にわたって表面だけしか考えないから再び同じようなことが起こってしまうのです。あくまでも「きっかけはきっかけでしかない」のであって、何かをきっかけに出て来る真の原因を「霊の曇り」と言うのです。その曇りは、

 

 まずどんな人でも、一皮むいたら、それはもう血膿でいっぱいです。とにかく筋肉や骨の量と、今の血膿の量とを比べたら、血膿の方が多い人が大部分です。(御教え集29号 昭和29年1月15日)

 

とありますように、みんな毒素だらけ、曇りだらけの身であることを忘れてはなりません。

勿論、浄化のたびに毒素が出ただけは曇りは減ってはいくのですが、それでもまだまだあるということです。

 

 なお「曇り」といえば、どちらかといえばマイナスイメージ、何となくイヤな感じがするものです。そんなイメージで言葉を使うから、「曇っているからそんな目にあうんだよ」「曇りが多いから」などと言ったり言われたり、あるいは「どうせ私は曇っているから」「曇りが多いから」などと口走ったりします。口では「曇り」とは言いながらも、「その曇りは自分が作ったもの(自分に原因がある)」と思っていないことも多々あるのではないでしょうか。お歌に、

 

いたつきの (もと)(つも)りし(つみ)(けがれ)   なるを()るこそ()()なき(さち)なる

 

ここで言う「いたつき」とは心労(苦悩)とか病という意味です。そのいたつきの原因は積もり積もった罪穢れ(曇り)ということを自覚することが幸福への道であると明主様は仰せられているわけです。

 

そこで幸せとは何か、ある新聞に「幸せとはなるものではなく、気づくものであるらしい」とあり、なるほどと思ったことがありました。確かに幸せに「なりたい」と思うだけでは幸せにはなれないし、ましてや幸せの中にいるのに気づかない、本当は感謝すべきことなのにそれに気づかないことばかりです。

 

 そこで何かあったときに何かの所為にするのではなく、「何故こうなったんだ」と考えることにより気づくこともあり、今まで当たり前と思っていたことが、そうではないと気づかされることは多いものです。

そこから生まれてくるものが感謝であり、感謝は人を幸せに導いてくれるエネルギーです。その感謝に気づかせてくれる働きが病気をはじめとする様々な浄化作用といえるでしょう。

 

結局、この世の事は浄化されなければ気づけない、改められないことだらけです。勿論、持っているもの(曇り)は各人みな違いますから、起こってくることもみな違います。

 

誰かの所為、何かの所為にして自分の心を振り返ろうとしないなら、あるいは「イヤだ、イヤだ」だけであるならば、自らの心の過ちには気づけません。「霊の曇りである」と真に思えるときに気づきが生まれるもので、だから浄化は幸せに気づく過程でもあるのです。

 

 

▼神の御守護とは

 

 私たちが生きるこの世の事を「苦の娑婆」などと言ったりしますが、この世はうれしい事もありますが、悪しき事としか思えぬこともあります。人それぞれに辛いことやしんどい事もありますが、悪しきことは浄化ですから、それで心がきれいになっていく、幸せに気づいていけるという世界でもあるのです。

 

 曇りが多い身であるならば、この世を生きるコツとして「色々あって当たり前、色々な浄化があっても当たり前」と開き直って生きるのもその1つでしょう。心からそう思えれば少々のことがあってもびくともしませんし、それを繰り返すたびに浄化されていき、浄化されただけは人は幸せになっていくのです。

 

 また物事はきっかけがあって起こってくるのなら「明主様が不幸になるきっかけを消してくださっている」と思えるならば何もない事が当たり前ではありません。

浄化が必要な場合でも、明主様がチョッとタイミングをずらされて軽く済ませていただいて場合だってあるものです。思うに御守護とは、このきっかけを「消してくださる。ほんのちょっとだけ変えてくださっている。」ということではないでしょうか。

 

 ところで台風シーズンを迎えた今、自然の猛威を目にするとき、人間にはどうすることもできないことばかりです。

例えば9月中旬に発生した台風14号、今までにないような強烈な台風とのことで厳重な警戒が呼び掛けていました。

当初、台風の進路は鹿児島の西側の沖合(東シナ海)を北上すると予想されており、その進路のすぐ右側に暮らす(鹿児島県いちき串木野市)弟の事が気になっていました。

 

台風は予想に反して鹿児島市に上陸して進むことになり、それではより台風の中心地に近づくために「これは大変なことになるかも」と思えてならず明主様にお願いせずにはおれませんでした。

 

翌朝、弟に連絡すると「風も雨も大したことはなかった」そうでホッとしましたが、進路右側の宮崎県には大雨による被害が出ていました。後日、気象庁は台風14号をが考察した結果、「もし当初の予想のように海側を通っていたとすれば、海からの水蒸気をたっぷり取り込んでもっとひどいことになっていた」といいます。実際には起こってみなければ分からないのですが、「ホンの少しの違い差で全然違った結果になる」ことを思い知った次第です。

 

 

▼神様を相手に

 

 物事は注意していても起こるときは起こるもので、それが何らかの形でかかわりがある場合、まずは、「そうなったことをお詫びすること」から始まります。そして償いをしなければならないということです。 こんなお歌があります。

 

(ひと)()く (おも)はれたしとおもう(ひと)   (おお)(かた)(かみ)(わす)れがちなる

 

私を含めて誰だって人には嫌われたくはない、チョッとでも自分を良く見せようとする気持ちがあります。

例えば仕事などで「自分はこれだけのことをやった」と主張するのもそうでしょう。

しかし「人に良く思われたい」とか、気に入られたいという気持は自分のことだけ(小乗的・自己中心的)のものであり、「幸せになりたい」など自分の事だけを考えているから、本当の運は開けないのです。そうではなく、神様を相手にしなさいということです。

つまり常に神(明主様)を思い、神を標準にして、神様のお気に召す人間になれと言うことでしょう。

 

 

▼浄化は人間が上等になるための過程

 

 今日、世の中では思い通りにならない苛立ちや疲れ、しんどさ等でイラつく大人や子どもが増えています。些細なことでも気に入らないことがあると、上から目線で相手を徹底的にやっつけたり、時には犯罪にも至ったりするわけです。これはコンビニやスーパーなどの接客業界、医療業界など、ありとあらゆるところで社会問題になっています。

 

 反対にいじめやリストラ、病気や看病苦などによって心が弱ってしまう「うつ」になる人の増加も後を絶ちません。というように人は元気でなければ、物事を前向きには捉えられません。ましてやクスリに頼るとどんどん泥沼化するばかりです。

 

 私たちが明主様から頂いた救いの根本は浄霊の力です。浄霊を受けることによって「曇りを減らしていただける」「ありがたき事に気づかせていただける」。つまり少しずつかもしれませんが魂が向上し、向上した分は自らの内にある執着や嫉妬、偏見、欲望、誤解、恐怖など要らないようなもの、変なものが消えていくのです。そうしたものが消えただけは考え方は天国的となり、だから「浄化は人間が上等になるための過程」というのです。

 

 同時に体内の毒素も減らしていただくわけで、減っただけは元気にも明るくもなっていきます。昔から人間が上等になっていくためには善徳を積むしかないといいますが、これは本当の事です。だけど一生けん命に人の幸せを願い、善い事をしながらも不幸に巻き込まれていく人もいます。

 

こうしたことに接するたびに「神仏などあるものかと!」思う人もいるわけですが、どうしてそうなるのかというと善徳を積んでも消しきれない位、曇りを抱えている人が多いということなのです。そこで浄霊があるのであり、

 

本教浄霊は病気を治すのが目的のようになっているが、本当からいうとそれだけではないので、もっと大きな意味がある事をかいてみるが、一言にしていえば浄霊とは幸福を生む方法である。というのは単に病気といってももちろん浄化であり、その因は霊の曇りの解消作用であるのは、今更言うまでもないが、そればかりではなく、人間一切の苦悩の無くなる作用である。

 従って貧乏も争いも浄化の表れで、私のいう病貧争ことごとくがそれである。ところが一切の浄化作用の中で最も重要なのが病気であって、これは生命に関するものであるからで従って病気さえ解決出来れば、貧乏も争いも自然に解決されるのは当然である。もちろんそうなる事が幸福の根本であるから、不幸の原因は全く霊の曇りであるのは、余りにも明らかである。それを簡単にして確実な方法こそ、霊の曇りの解消法としての浄霊であるから、最初に述べたごとく浄霊は独り病気のみではない事である。(「浄霊と幸福」 昭和27年3月25日)

 

そこで浄霊によって元気にしていただくということは、言葉を変えたら善徳を積むことと同じことになります。私たちは明主様の御守護の中にあることを自覚して浄化を感謝し、また少しでも明主様の「皆が安心して暮らしていける世の中をつくる」という御心に適うように心掛けることです。そして日々を喜んで明るく過ごさせていただくことであり、感謝があるところに出現するのが天国です。